700の労働者経営参加努力が労働者によって確認されましたが、200以上は失敗でした。


中央ペンシルバニアのラシトンの鉱山プロジェクトは経営参加技法の初期の実験失敗例ですが、このケースは労働者と経営者の協力についての利点と難点を示しています。


1970年代半ばのこの18ケ月に及ぶ実験の目的は、235人の炭鉱労働者を雇っているラシトン鉱山会社が労務管理を再構築し、労働者に自分たちの仕事について新しい洞察をさせることによって生産性を伸ばすことができるかどうかを決定することでした。


会社と全国組合である全米鉱山労働者組合(UMW)はもし協力関係を作り上げることができたなら、ラシトンの全炭鉱労働者や、その他の企業と炭鉱夫についても、このやり方を拡げることができるかもしれないと期待しました。


実験はUMWと会社の間の協定によって始められたものです。


協定は経営者と組合代表者からなる合同委員会によってプロジェクトのコントロールを行うというものでした。


この協定によれば、両陣営が電話一本で再建努力を放棄してもよいことになっていました。


炭鉱夫と経営者の実行委員会は27人のボランティアからなる実験鉱区を作り、各人にこの鉱区ですべての仕事の訓練を施し最高の給与を払うことになっていました。


従来、生産を託されていた職長はこの権限をチームに譲り、安全基準の監督責任だけを負っています。


労働者は自分を監督するのに加えて自分たちの苦情も処理する責任を負うことになっていました。


この実験の経済的成果はすばらしいものでした。


次回くわしく紹介しましょう。

アメリカ企業が衰退すると、外国の競争相手と労働者がアメリカ国内の競争者と同様の利益を受けます。


もし経済が再び活力を取りもどすべきなら、アメリカの企業、労働者、組合はもっと協力的な関係を作る必要があるでしょう。


数多くの企業、組合そして何百万という労働者が今やそうしようとしています。


1982年のニューヨーク証券取引所による158企業調査によれば、従業員100人以上の企業7社に一社が会社をスポンサーとする訓練、評価、経営参加のための特別職構想、および品質管理サークルから成る人的資源プログラムをもっています。


この調査はさらに、従業員500人以上の企業の70パーセントが一般労働者を意思決定に参加させる何らかの行動を少なくとも一つ起こしている、と報告しました。


このような手法はAT&T、コントロール・データ、GTE、ウェスチングハウス、イースタン航空、ゼネラル・エレクトリック、ユナイテッド通信およびアメリカ通信労働組合、国際機械工協会、全米ゴム労働組合、電気労働者国際同盟、全米自動車労働組合・・・


といった組合によって使われています。


非組合労働者をもつ何百という他の会社も経営参加技法を導入しています。


これらの努力の多くは成功しているものの、失敗するものも数多いのです。

オーストラリアでは、移民を希望する人に対し、家族からの援助だけでは足りない者には政府がこれを補うようになっていました。


1830年代後半から、1850年代初頭にかけて、政府の補助を受けてニューサウスウェールズにやってきた移民は、そのほとんどがアイルランド人で占められていたそうです。


オーストラリアにおけるアイルランド人社会のアイデンティティーは、宗教と結びついて保たれる様になりました。


1829年、英国では完全な形で市民の自由が認められ、オーストラリアのカトリック教徒も新たな自信に満ちあふれていました。


アイルランド人の精神を支配していたのはローマカトリック教で、アイルランド移民の数が増すにつれ、司祭の数も増加するようになりました。


オーストラリアのアイルランドローマカトリック教は、その他の社会と比べ、特筆に値するほど団結力が強かったのです。


英国国教会は、名目上多数派を誇っていたものの、信徒の宗教に対する関心は次第に薄れていきました。


長老派教会はスコットランドとオーストラリアで宗派の分裂をおこし、勢力を弱める傾向にありました。


メソジスト派の信仰は厚かったものの、南オーストラリア以外の場所にはあまり信徒がいなかったのです。


プロテスタントの領域と規模と比較しても、ローマカトリック社会は決して遜色をとらず、また、他の社会から孤立していたために、一段と結束力を強めていきました。

流刑反対運動は、オーストラリア急進主義が勝ち得た主な勝利の1つでした。


囚人階級は1856年までタスマニアに残っていましたが、その後西オーストラリアのはるか彼方へと去って行きました。


植民地には新しい道徳観念が生まれましたが、これは争いのない社会を作るための手段とはなり得なかったのです。


オーストラリア生まれの人々と、移民との間には相変わらずの隔りが見られ、移民同志の中にも対立がありました。


1大移民団であるアイルランドのカトリックの社会には、ほとんど、新しい文化的価値が生まれませんでした。


個人主義よりも、家族の絆を大切にする傾向は、北アメリカに渡った19世紀のアイルランド移民にも共通して見られる特色でした。


これは、アイルランド社会では依然として田舎の気質が失われていない事実を物語っています。


アメリカに渡ったアイルランド移民に関し、この様な記述が残っています。


「あらゆる移民の中でも、アイルランド人は最も家族の自立に力点を置いた。


アイルランド人は、すぐさま植民地でも相場の高い賃労働を見つけ、家族や友人を呼び寄せる為の金を貯えようとする。


こうして移民にはずみがつき、そして新しくやって来た者も、自分を受け入れてくれる友人を見つけ出す」。

シドニーでの流刑に反対する大衆集会では、以下の宣言がなされました。


「流刑を復活すれば、ニューサウスウェールズに住む人々の感情を逆なですることになるばかりではない。


流刑は、移住の地としての植民地の魅力を台無しにしてしまう傾向があるため、結局は植民地の人々が歓迎する労働力の供給そのものを、大幅に減少させてしまうであろう。


一方大英帝国はこれまで失業人口を養い、犯罪を検挙し、収監し、裁判にかけて流刑に処するために無駄に費してきた莫大な財源を、国家的規模で植民地化を計るという壮大な計画のため、有効に利用することができる。


植民地政策により、これまでは流刑に頼って減少させてきた貧困や犯罪を、はるかに効率的に減少させることになろう。


なぜならば、植民地の資源開発に必要な労働力を送り込めば、その見返りとして、大英帝国は国力を増強し、商業も繁栄し、悪の根源を大きな恵みの種へと変えることができるからである」。

禁酒組織が出現したことは、植民地社会全体に、新しい価値観が浸透したことの表れでした。


こうして、人々の道徳心の高まりと共に、囚人の流刑を「忌避」する運動が、ますます高まりを見せて
いきました。


またこの運動により、植民地オーストラリアは自由移民の増大で大きく変貌を遂げ、もはや「犯罪人」の掃きだめではないという、植民地人のコンセンサスが高まっていることを立証して見せたのです。


囚人労働者を失うことは、地主階級にとって大きな痛手となりました。

その地主階級を代表するジェイムス・マッカーサーでさえも、囚人の労働力では経済的効果が期待できないという理由で(エマンシピストの影響力が強まるという理由同様)、囚人労働者は社会を堕落させ、本国と植民地の格差を大きくさせると、囚人の受け入れに難色を示しました。


囚人を送り込むと、これからオーストラリアに渡ろうとする自由移民は気勢をそがれると考えられました。エグゼクティブトレードによると、1840年代に入り、英国政府は再び、ニューサウスウェールズに対しての囚人移送を再開しようとしたのですが、これは住民の強硬な反対にあいます。


1850年、シドニーでは流刑に反対する大衆集会が開催されました。

19世紀には、教育に対して熱意を抱くことが人格者としての要件であったとするなら、謹厳であることもまた1つの要件でした。


19世紀の英国では、酔っ払いの数が、1つの社会問題にまでなっていました。


1850年までには、人口1人あたりが、年間約3ポンド(6ドル)近くもの金を酒のために費しました。


この額は、平均的労働者の年間家賃を上回る額です。


酒の消費が増大したため、社会の安定性に不安を投げかけ、またこれが、犯罪の主要原因となっていると考えられました。


1830年代には労働者を酒から遠ざける試みがなされました。


シドニーでは、1837年までに禁酒紅合が結成され、8年後には3、000人の人々が、酒を断つことを誓いました。

1839年までには、シドニーにもマンチェスター・ユニティの支部が設立されました。


また1840年代に英国で最初に設立された住宅組合に基き、これと似た相互扶助組織も結成されています。


組合員の払い込んだ金を元手に、組合員は順に、住宅建設資金の交付を受けることができました。


この考えがシドニーに導入されると、好況時には職工達ですら、英国にいた時には、とても手が届かなかった土地を手に入れることもできる様になりました。


シドニーの観察者は、1840年代が終わろうとする頃までには「サリーヒルズ、チッペンデール、パイルモント、バルメインといった場所に、つつましやかな住宅の一群が出現した。」と記しています。


自立は、相互扶助を目的とする団体の規定にとどまっていたわけではありません。


知的、道徳的向上をはかるという意味もありました。


教育を受け、それを実生活に応用させることが自立した人間の理想となりました。


そのため、職人階級の人々を教育する技術専門学校が創設されました。


しかし、この様な専門学校には、実務についている労働者が入学するケースより、自分を向上させることを願う、中産階級でも下の部類に属す事務員などが入学してくるケースの方が多かったのです。


ヘンリー・カーマイケルは、功利主義を伝導したイングランド人、ジェレミー・ベンサムの薫陶を受け、1830年代、1840年代を通じ、ニューサウスウェールズの成人教育に多大な貢献を果たしました。


カーマイケルは1833年に、シドニー技術学院を設立しますが、同校は、「ニューサウスウェールズ全体にとって有益な知識である科学、その他の学問を普及させる。」ことを目的としていました。


しかし本来の目的としていたシドニーの技術工があまり入学しなかったため、カーマイケルは次策に不満を募らせていきました。

彼らはイングランドやヨーロッパの様に、区画整理のされた田畑を理想としていたので、南オーストラリアを真の田園と思うことはできなかったのです。


「ファーマーズ・ウィークリー・メッセンジャー」誌のウォードは柱に横木をわたし、針金をはっただけの見すぼらしい塀が、美しい生け垣に取って代えられる日を待ち望んでいました。


こうした移民団、また一般のオーストラリア植民地社会の中では保守的な傾向が根強かったようです。


オーストラリアと同様イングランドにおいても、保守的な人々は、工業化によって出現した社会機構を変革することにはあまり関心を示さず、それに適応した生き方をしようとしました。


社会問題を解決するためには、「自立」を進めなくてはいけないということを、誰もが考える様になりました。


そのためには、各人がより一層の努力を払う必要がありました。


サミュエル・スマイルズはこう言いました。


「この国の平均的労働者は有能で立派、社会的地位もある幸せな人間であってはならないなどという理屈はない。」


新しい社会秩序の道徳理論をもとに、理想的な「自立」が考えられました。


「自立」という考えは、社会が困窮状態に陥った時に、必要な援助を与える相互補助制度を作るもととなりました。


労働者階級は、1834年に制定された新貧民法が定める「貧民収容施設への入所資格」に対して不安を抱き、病気や失業といった不測の事態に備え、組合員の生活を保証する共済組合の結成に積極的となりました。


共済組合の関連組織で最大級を誇るマンチェスター・ユニティは、1838年当時、1、200件の宿泊施設と90、000人の組合員を擁していました。

オーストラリアのニューサウスウェールズ以外の場所では、チャーチスト運動が与えた衝撃も、それほど目立つ動きを見せてはいませんでした。


南オーストラリアでは、1851年に選挙権連合が結成されました。


この連合には伝統を重んじ、信仰心の厚い非国教徒が目的とした、宗教に対する国家補助の廃止、普通選挙、無記名投票、年1回の定例議会開催等を初めとする、人民権章から取り上げられた綱領がもりこまれていました。


しかし、この運動はあまり大きな影響を及ぼしませんでした。


南オーストラリアの住人の中には、チャーチスト運動の本拠地である北部の工場労働者や手ばた織工といった階級の人がほとんどいなかったのです。


その多くは、イングランドののどかな田園生活をそのまま実践している様な人々でした。


1830年代末から40年代の初めにかけて南オーストラリアにやってきた主な移民団の75%はイングランド出身者で占められていたのですが、ダービーシャー等の北部出身者はその中の5%にも満たなかったのです。


南西部の州、コーンウォール、デボン、サマーセットの出身者が15%を占め、グロースターシャー、ウィルトシャー、ドーセットそしてハンプシャー出身が20%、一方、残る35%は、ロンドン近郊諸州に散っていました。


ほとんどの人は田舎育ちでしたが、地方都市での生活は経験していたと思われます。


南オーストラリアの人々は、イングランドの地方部をまねた田園地帯を作り出そうと努めていました。