2010年10月アーカイブ

オーストラリアでは、移民を希望する人に対し、家族からの援助だけでは足りない者には政府がこれを補うようになっていました。


1830年代後半から、1850年代初頭にかけて、政府の補助を受けてニューサウスウェールズにやってきた移民は、そのほとんどがアイルランド人で占められていたそうです。


オーストラリアにおけるアイルランド人社会のアイデンティティーは、宗教と結びついて保たれる様になりました。


1829年、英国では完全な形で市民の自由が認められ、オーストラリアのカトリック教徒も新たな自信に満ちあふれていました。


アイルランド人の精神を支配していたのはローマカトリック教で、アイルランド移民の数が増すにつれ、司祭の数も増加するようになりました。


オーストラリアのアイルランドローマカトリック教は、その他の社会と比べ、特筆に値するほど団結力が強かったのです。


英国国教会は、名目上多数派を誇っていたものの、信徒の宗教に対する関心は次第に薄れていきました。


長老派教会はスコットランドとオーストラリアで宗派の分裂をおこし、勢力を弱める傾向にありました。


メソジスト派の信仰は厚かったものの、南オーストラリア以外の場所にはあまり信徒がいなかったのです。


プロテスタントの領域と規模と比較しても、ローマカトリック社会は決して遜色をとらず、また、他の社会から孤立していたために、一段と結束力を強めていきました。

流刑反対運動は、オーストラリア急進主義が勝ち得た主な勝利の1つでした。


囚人階級は1856年までタスマニアに残っていましたが、その後西オーストラリアのはるか彼方へと去って行きました。


植民地には新しい道徳観念が生まれましたが、これは争いのない社会を作るための手段とはなり得なかったのです。


オーストラリア生まれの人々と、移民との間には相変わらずの隔りが見られ、移民同志の中にも対立がありました。


1大移民団であるアイルランドのカトリックの社会には、ほとんど、新しい文化的価値が生まれませんでした。


個人主義よりも、家族の絆を大切にする傾向は、北アメリカに渡った19世紀のアイルランド移民にも共通して見られる特色でした。


これは、アイルランド社会では依然として田舎の気質が失われていない事実を物語っています。


アメリカに渡ったアイルランド移民に関し、この様な記述が残っています。


「あらゆる移民の中でも、アイルランド人は最も家族の自立に力点を置いた。


アイルランド人は、すぐさま植民地でも相場の高い賃労働を見つけ、家族や友人を呼び寄せる為の金を貯えようとする。


こうして移民にはずみがつき、そして新しくやって来た者も、自分を受け入れてくれる友人を見つけ出す」。