2010年9月アーカイブ

シドニーでの流刑に反対する大衆集会では、以下の宣言がなされました。


「流刑を復活すれば、ニューサウスウェールズに住む人々の感情を逆なですることになるばかりではない。


流刑は、移住の地としての植民地の魅力を台無しにしてしまう傾向があるため、結局は植民地の人々が歓迎する労働力の供給そのものを、大幅に減少させてしまうであろう。


一方大英帝国はこれまで失業人口を養い、犯罪を検挙し、収監し、裁判にかけて流刑に処するために無駄に費してきた莫大な財源を、国家的規模で植民地化を計るという壮大な計画のため、有効に利用することができる。


植民地政策により、これまでは流刑に頼って減少させてきた貧困や犯罪を、はるかに効率的に減少させることになろう。


なぜならば、植民地の資源開発に必要な労働力を送り込めば、その見返りとして、大英帝国は国力を増強し、商業も繁栄し、悪の根源を大きな恵みの種へと変えることができるからである」。

禁酒組織が出現したことは、植民地社会全体に、新しい価値観が浸透したことの表れでした。


こうして、人々の道徳心の高まりと共に、囚人の流刑を「忌避」する運動が、ますます高まりを見せて
いきました。


またこの運動により、植民地オーストラリアは自由移民の増大で大きく変貌を遂げ、もはや「犯罪人」の掃きだめではないという、植民地人のコンセンサスが高まっていることを立証して見せたのです。


囚人労働者を失うことは、地主階級にとって大きな痛手となりました。

その地主階級を代表するジェイムス・マッカーサーでさえも、囚人の労働力では経済的効果が期待できないという理由で(エマンシピストの影響力が強まるという理由同様)、囚人労働者は社会を堕落させ、本国と植民地の格差を大きくさせると、囚人の受け入れに難色を示しました。


囚人を送り込むと、これからオーストラリアに渡ろうとする自由移民は気勢をそがれると考えられました。エグゼクティブトレードによると、1840年代に入り、英国政府は再び、ニューサウスウェールズに対しての囚人移送を再開しようとしたのですが、これは住民の強硬な反対にあいます。


1850年、シドニーでは流刑に反対する大衆集会が開催されました。