植民地社会

オーストラリアのニューサウスウェールズ以外の場所では、チャーチスト運動が与えた衝撃も、それほど目立つ動きを見せてはいませんでした。


南オーストラリアでは、1851年に選挙権連合が結成されました。


この連合には伝統を重んじ、信仰心の厚い非国教徒が目的とした、宗教に対する国家補助の廃止、普通選挙、無記名投票、年1回の定例議会開催等を初めとする、人民権章から取り上げられた綱領がもりこまれていました。


しかし、この運動はあまり大きな影響を及ぼしませんでした。


南オーストラリアの住人の中には、チャーチスト運動の本拠地である北部の工場労働者や手ばた織工といった階級の人がほとんどいなかったのです。


その多くは、イングランドののどかな田園生活をそのまま実践している様な人々でした。


1830年代末から40年代の初めにかけて南オーストラリアにやってきた主な移民団の75%はイングランド出身者で占められていたのですが、ダービーシャー等の北部出身者はその中の5%にも満たなかったのです。


南西部の州、コーンウォール、デボン、サマーセットの出身者が15%を占め、グロースターシャー、ウィルトシャー、ドーセットそしてハンプシャー出身が20%、一方、残る35%は、ロンドン近郊諸州に散っていました。


ほとんどの人は田舎育ちでしたが、地方都市での生活は経験していたと思われます。


南オーストラリアの人々は、イングランドの地方部をまねた田園地帯を作り出そうと努めていました。