2010年7月アーカイブ

彼らはイングランドやヨーロッパの様に、区画整理のされた田畑を理想としていたので、南オーストラリアを真の田園と思うことはできなかったのです。


「ファーマーズ・ウィークリー・メッセンジャー」誌のウォードは柱に横木をわたし、針金をはっただけの見すぼらしい塀が、美しい生け垣に取って代えられる日を待ち望んでいました。


こうした移民団、また一般のオーストラリア植民地社会の中では保守的な傾向が根強かったようです。


オーストラリアと同様イングランドにおいても、保守的な人々は、工業化によって出現した社会機構を変革することにはあまり関心を示さず、それに適応した生き方をしようとしました。


社会問題を解決するためには、「自立」を進めなくてはいけないということを、誰もが考える様になりました。


そのためには、各人がより一層の努力を払う必要がありました。


サミュエル・スマイルズはこう言いました。


「この国の平均的労働者は有能で立派、社会的地位もある幸せな人間であってはならないなどという理屈はない。」


新しい社会秩序の道徳理論をもとに、理想的な「自立」が考えられました。


「自立」という考えは、社会が困窮状態に陥った時に、必要な援助を与える相互補助制度を作るもととなりました。


労働者階級は、1834年に制定された新貧民法が定める「貧民収容施設への入所資格」に対して不安を抱き、病気や失業といった不測の事態に備え、組合員の生活を保証する共済組合の結成に積極的となりました。


共済組合の関連組織で最大級を誇るマンチェスター・ユニティは、1838年当時、1、200件の宿泊施設と90、000人の組合員を擁していました。

オーストラリアのニューサウスウェールズ以外の場所では、チャーチスト運動が与えた衝撃も、それほど目立つ動きを見せてはいませんでした。


南オーストラリアでは、1851年に選挙権連合が結成されました。


この連合には伝統を重んじ、信仰心の厚い非国教徒が目的とした、宗教に対する国家補助の廃止、普通選挙、無記名投票、年1回の定例議会開催等を初めとする、人民権章から取り上げられた綱領がもりこまれていました。


しかし、この運動はあまり大きな影響を及ぼしませんでした。


南オーストラリアの住人の中には、チャーチスト運動の本拠地である北部の工場労働者や手ばた織工といった階級の人がほとんどいなかったのです。


その多くは、イングランドののどかな田園生活をそのまま実践している様な人々でした。


1830年代末から40年代の初めにかけて南オーストラリアにやってきた主な移民団の75%はイングランド出身者で占められていたのですが、ダービーシャー等の北部出身者はその中の5%にも満たなかったのです。


南西部の州、コーンウォール、デボン、サマーセットの出身者が15%を占め、グロースターシャー、ウィルトシャー、ドーセットそしてハンプシャー出身が20%、一方、残る35%は、ロンドン近郊諸州に散っていました。


ほとんどの人は田舎育ちでしたが、地方都市での生活は経験していたと思われます。


南オーストラリアの人々は、イングランドの地方部をまねた田園地帯を作り出そうと努めていました。