彼らはイングランドやヨーロッパの様に、区画整理のされた田畑を理想としていたので、南オーストラリアを真の田園と思うことはできなかったのです。
「ファーマーズ・ウィークリー・メッセンジャー」誌のウォードは柱に横木をわたし、針金をはっただけの見すぼらしい塀が、美しい生け垣に取って代えられる日を待ち望んでいました。
こうした移民団、また一般のオーストラリア植民地社会の中では保守的な傾向が根強かったようです。
オーストラリアと同様イングランドにおいても、保守的な人々は、工業化によって出現した社会機構を変革することにはあまり関心を示さず、それに適応した生き方をしようとしました。
社会問題を解決するためには、「自立」を進めなくてはいけないということを、誰もが考える様になりました。
そのためには、各人がより一層の努力を払う必要がありました。
サミュエル・スマイルズはこう言いました。
「この国の平均的労働者は有能で立派、社会的地位もある幸せな人間であってはならないなどという理屈はない。」
新しい社会秩序の道徳理論をもとに、理想的な「自立」が考えられました。
「自立」という考えは、社会が困窮状態に陥った時に、必要な援助を与える相互補助制度を作るもととなりました。
労働者階級は、1834年に制定された新貧民法が定める「貧民収容施設への入所資格」に対して不安を抱き、病気や失業といった不測の事態に備え、組合員の生活を保証する共済組合の結成に積極的となりました。
共済組合の関連組織で最大級を誇るマンチェスター・ユニティは、1838年当時、1、200件の宿泊施設と90、000人の組合員を擁していました。